この写真は、書写山円教寺の参道にある観世音菩薩様。
円教寺の参道には、西国三十三所霊場の観世音菩薩様が順番に置かれている。
この参道を歩くだけで、西国三十三所を見て回れるというとてもありがたい参道だ。
そこで今回は宗教観について。
宗教観というものがどれほど大切なのかはぼくにもわからないんだけれど、
ただひとつ言える事は信じる事の大切さではないかと思んだな。
ぼくは祖母から形見の念珠と仏像を受け継いでいる。
念珠は日蓮宗のもの、そして仏像は高さ20センチくらいの木彫りの阿弥陀座像。
阿弥陀様の鼻や口は削れてて、さらに両手も削れてしまっている。
この阿弥陀様がご自身の身体でぼくたちの事をかばってくれてるんだとある住職さんに言われた。
ぼくは毎朝、祖母の形見の念珠を持ちこの阿弥陀様にお経を唱えている。
そこには亡き祖母への畏敬の念と、自分への自戒の念、それから今、生かせていただいている感謝の想い。
その祈りはやがてぼくをこの書写の山へと導いてくれた。
そして円教寺との出会いは、コツコツ頑張ってきたご褒美なんじゃないかと思ったんだ。
この円教寺の仕事は、本当にありがたいお仕事。
そんなぼくの想いが新郎新婦のお2人にも伝わって、円教寺で結婚式を挙げてくれるという事はとても幸せな事で、
そのひと組ひと組が、ぼくにとっての「徳」であるように感じている。
宗教は、渇いた心に感謝の気持ちを持たせてくれる。
ぼくが毎朝、仏様に手を合わせ、拝んでるのは、そんなぼく自身の飢えた心を癒すためなのかもしれない。
でもそれでいいんだと思う。
何かを信じること・・・、そこに真意があると思うから。